我妻佳代ちゃんの時代(とかPumpKinとか姫乃樹リカとか)

きょうは16年前、インテックス大阪我妻佳代ちゃんの最後のイベントを見に行った日です。彼女は大阪のラジオ局の公開番組に出演したのでした。

テレビやラジオの番組で
「今日のこれで私は引退なんです」
というのはよほどの大物でないと珍しいことではないでしょうか。もちろん我妻佳代ちゃんはおニャン子クラブ会員番号48番(私のはてなIDもこれに由来します)で大メジャーではあったのですが、伸さんがログアウト誌に彼女への愛をこめていみじくも書いていた「遅れてきたおニャン子」というたとえのごとく、世はすでにイカ天ブームへと移行しておりました。

そんなわけで、なんでもないいつものアイドル番組の公開で、ゲストから
「私これで引退なんです」
と言われてしまい、あの日、司会の人もけっこう対応に苦慮されたのではないかと拝察します。佳代ちゃん本人も相当テンパっていましたが、われわれ会場のファンのテンパりぶりはそれはもう尋常の域を越えてしまっておりましたから…。

そのあと4月5日が彼女の最後のアイドル活動で、ニッポン放送でのラジオレギュラー番組最終回の仕事でした。「おチャメな夜だよ いたずらレモン」という題名だったと記憶しています。

原宿の宮下公園ぞいのライブハウスでKAZZ:BAというバンドのゲストコーラスとしてMEGUと一緒に出演しているのを知ったのはその2年後ぐらいだったでしょうか。突然近くになった佳代ちゃんに僕は何を話していいやらさっぱりわからずに、結局なにも会話はしなかったような気がします。それが数回ありました。なんだか夢のようなできごとでした。

そしてその後も加藤茶とのラジオとか、お祭りのステージとか、芸能活動をいろいろやっていた模様ですが、現在は都心の一等地(六本木のあたり)に48というお店を出されているようです。一部のファンの方は何回かそこに集結して会合を持たれているそうなのですが、かなーり高級そうな店なんで私は怖くてまだ行ってません。

町田の東急で彼女のデビューシングル「プライベートはデンジャラス」のキャンペーンイベントはありました。このタイトルは昭和62年当時のセンスでもナンダカナの言語感覚だったようです。1日違いでPumpKinが「プレッジハート(誓約)」でデビューしています。のちに我妻佳代ちゃん以上に私を振り回してくれるPumpKinですが、このころはそんなことはつゆ予知できず、どっちかといえばのりピーファンの私でした。

おニャン子クラブという恐竜王国の時代が去って、88年は姫乃樹リカちゃんをはじめとするみずみずしい哺乳類たちがいっぱいデビューをしていました。ちょうどレコードからCDへの移行の年でもあり、コレクターにとっての話題もいろいろありました。とくにPumpKinではカセットとレコードとCDがみんな微妙に内容が違うというアコギな商売をやってくれたBMGビクター。全種類持ってる人は後年かなり大いばりでした(なにしろレコードはサンプル盤しかないシングルもあった)。翌89年組からはついに、CSは新人のEPを出さないことになり、プレーヤーもないのに河田純子ちゃんの「輝きの描写(スケッチ)」のCDSを握手会のために買ったことを思い出します。

そんな中、我妻佳代ちゃんは爬虫類の生き残りであり、PumpKinはのりピーが切り拓いたNHKへの橋頭堡を確保するサンミュージックの工兵部隊であって、アイドルというよりはアニメ歌手として、演歌歌手の卵と福島県海通りの社長の娘とをくっつけて急遽作られたものでした。初期のPumpKinの楽曲はアルバムを含めて「三銃士」を意識した歌詞がたいへん多く、タイトルも「ラルジャンの十字架」などとってもおフランスなのよ。

努力のかいあって、PumpKinは月岡貞夫さんのNHKアニメ「エルとプルー」の主題歌や挿入歌の仕事が決まります。この子供アニメは当初はNHKが買うはずだった形跡が随所にあり、PumpKinは終始NHKの薫りのするデュオであったといえるでしょう。

ところがその大事なときに、PumpKinのちゃおが蒸発して沖縄で豪遊してしまいました。しかしNHKアニメの仕事は重要なので、ここでPumpKinはなくなりましたでは営業上済まされません。サンミュージックはかつて自社のスクールの優等生で城山美佳子のバックダンサー仲間だった(そしてその後自社オーディションで桜井幸子と決戦に残されて落ちたのを最後に、地元八王子で高校のミスになったりびっくりドンキーでバイトしたりする日常生活を送っていた)小川真澄を後釜に起用してなんとかPumpKinの存続を図ります。

1989年2月10日の「週刊歌謡マガジン」から正式に交替したとファンから認識されている彼女は、みかりんの助けも得て事務所の期待に充分に応えました。当時ファンは突然の交替に驚くと同時に、「パンプキンはサンミューにとってそんなに大事なものなのか」とびっくりしたものでした。

しかしどういう事情があったのでしょうか、この単線アニメをNHKは買わなくなって宙に浮いてしまったのです。数ヶ月ののちテレビ朝日の「パオパオチャンネル」のなかの番組から浮いた一コーナーとして拾ってもらえてなんとかオンエアにこぎつけたものの、同番組の改編にともなって早朝の番宣番組のなかの一コーナーというさらなる僻地に押し込められてしまい、もはや子供など誰も見ていなさそうな雰囲気のなか、いつのまにか放映終了していました。

かつて宮崎駿さんや大塚康夫さんと一緒に東映動画で仕事をされていた月岡貞夫さんは「狼少年ケン」などの制作現場で「天才」との冠をつけて讃嘆されていたのでしたが、その頃の写真で見た紅顔のはにかみを持つ美少年の月岡さんは、池袋サンシャインでのエルプル握手会で会ったときには初老の疲れた男性になっていました。僕はアニメファンとしての敬意をこめてその手を握り
「がんばってください」
などと今思えば大変失礼な声をかけてしまったのでしたが、それは天才が永く創作の場を持たなかった悲哀や、創作の場があっても顧客を得ないことの悲哀を彼に感じとってしまったから

などではなく単にアホだった。そしてまーたんもメジャーデュオへの道を断たれてやる気を失い、それは無限に膨らみつづける体型に現れていきました…………。

昭和63年夏。姫乃樹リカちゃんが中牟田さんとの二人三脚による長いプレアイドル時代(当時はそんな概念も言葉もない)のあと大きく開花し、その傑作「もっとHurry Up!」で新しい洗練されたアイドルの形を僕らに提示してくれていた頃。彼女の持つちっちゃくてかわいらしくてすばしこくてかしこくて歌がうまくて胸が大きくて自分を持ってそうというテイストは10年早すぎたというべきで、その後の乙女塾による時代逆行といわゆるアイドル冬の時代を経て、現代の新しいフェーズのアイドルたちにおいてようやく体現されはじめているといえます。そのころ我妻佳代ちゃんは「Seキララでいこう!」というこれまたトホホな言語センスのタイトルを持った3枚目のシングルを出しています。

同じころ、親友のマッキー(マキロン)が「やりたい放題」というまるで本人に似あわない後藤つぐおじちゃんのお遊びみたいな歌ながらも意外なソロデビューを果たしています。それはよかったのですが、あたらしい時代のなかで、どちらも結局は先細りしていくしかない運命にあることは、そのころ誰より本人たちがいちばんよくわかりはじめていたのではないでしょうか。佳代ちゃんが引退を決断したのは、あとで発表してくれた話によればまさにこのころであったということです。

アイドルは自分の意志で出てきて、自分の意志でいなくなります。ファンはそれに振り回されるだけ。もちろんファンにも選択の自由があり、相沢秀禎社長が言ったようにかなり移り気なものです。だからこそ今こうして、ある特定のアイドルと、ある特定のファンたちが一緒の場(物理的または精神的な)にいるということは、陳腐なことばでいえば一期一会だといえるわけで、それをあとから追憶してなつかしがったって何にもならないことで、そんなのは歳を食った証拠。いつもあたらしい現場のあたらしい感動を一緒にアイドル(広義の)と作っていくべくファン(広義の)たる私は努力をしないといけないのでしょう。もしファンという立場をまたやるのであれば。