1987年のAKB48

 AKB48、とはじめて聴いたとき、私にとってそれは、どう考えてもAgatsuma Kayo kaiin Bangou 48banの略としか思えませんでした。
 靖国の桜の舞い散る下、AKB48のAチームがステージをおこなった今日4月2日。17年前の今日は、元おニャン子クラブ会員番号48番我妻佳代が、インテックス大阪で、アイドルとしての最後の花びらを散らしたファイナルイベントをおこなった日です。
 ファイナルイベントと言いましたが、じつはそれは単なる、ゲスト出演したアイドルラジオ番組の公開生放送でした。考えてみれば、ゲストで出てきてそれが最後ですってのも、番組にとっては、おいしかったのやら迷惑だったのやらよくわからない話ではあります。なにしろ客のテンションは異様でした。私を含めて。
 ミニコミ誌「ログアウト」で当時、看板ライターの伸さんが「遅れてきたおニャン子」と呼んだ我妻佳代には、おニャン子に入る前、ホリプロスカウトキャラバンで決戦大会まで行ったという輝かしい歴史があります。高橋みなみの経歴を知ったとき、偶然とはとても思えないシンクロニシティをそこに感じたのは私だけだったのでしょうか。
 高橋みなみと同様、我妻佳代もホリキャラ決戦大会で惜しくも落選しました。「味の素ピナ賞」という謎の賞を受賞しています。グランプリをとった山瀬まみは、その歌唱力にもかかわらず当初いまいち人気低迷しましたが、同じころ我妻佳代は、転進して見事おニャン子入りを果たすところなんかも、高橋みなみのストーリーそっくりです。が、それは48番という、おニャン子の黄昏の時機だったところが、初期メンである高橋みなみとは大きく違うところ。
 そのような違いこそあれ、4月8日生まれのAKB48の看板娘高橋みなみと、会員番号48番の我妻佳代。ふたりはともに48、という数字を一生背負う存在として、秋元康のてのひらの上で、その青春のひとときを激しく燃焼させる運命をまるで持って生まれたかのようです。
 48番がおニャン子の黄昏だということは、当時だれもが知っていたことではありません。秋元康も当時
「お母さんは昔、おニャン子クラブだったのよ、と言いながら娘におニャン子のオーディションを受けさせる、そんな息の長いグループにしたい」
みたいなことを語っていたのを覚えています。まあ、それがどこまで本気であったかはわからないにせよ、大人の事情から、わずか2年半で、まだまだ人気の高いうちにあのような急な幕引きを図らざるをえなくなるなどということは、必ずしも企画側の本意ではなかったように思われます。
 思えば佳代っちは、そのあおりをもろに食らってしまった、アンラッキーな人ではありましたが、しかしそれだからこそ、彼女の純朴な人柄と愛くるしさは、あの頃のまま、ずっとファンの心に残りつづけていくことでしょう。
 というのは、アイドルとしての我妻佳代は1989年4月2日で幕引きをしましたが*1、実はその後かなり経ってから、相当思いがけず彼女を間近にステージで見る仕合せに浴する日々が私にやってきたからです。それは渋谷のクロコダイルにおける「カジーバ」の定期ライブでした。でもこの件については、半ば隠しであったという後ろめたさを今も私は持っており、たまたま友人関係にめぐまえていただけでその存在を知ることができたのですから、今でも、公然と語っていいものか躊躇を覚えます。
 加藤茶のラジオに出たり、48というお店を始めたり、といった近況については、皆さんご存知のとおりです。逆に私は日本を離れてしまっていたため、もうわからないことになってしまいました。

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 さて、ここからは年寄りの思い出話です。推敲もろくにしてないんですみません。
 伸さんの文章に憧れて、自分もこういう人になりたいと思い、折りしも大学生になった私は、パソコン通信で駄文を書き連ねるうち、アイドル総合ボードの立ち上げにアイデアを求められ、それをきっかけとして、ログアウトにスカウトされました。右も左もわからない私に、編集長が最初にくれた仕事は、なんと「我妻佳代インタビュー」でした。
 もちろん、ベテランの編集者にくっついていくだけが私の役割。フジテレビのテレビ撮影現場にもぐりこんで収録風景を撮影したあと、局内の食堂に佳代ちゃんと比嘉さんが来てくれて、インタビューです。ちょうど、初めてのコンサートが日本青年館で終わったばかり。佳代ちゃんは
「バラードが始まったとたん、客席から“やめろー!”という声がとんで、哀しかった」
と言いました。一緒に行った編集のNさんが即座にそれに答えて
「あれは、バラードなんだから手拍子をやめろという意味で、客に言ったんでしょう」
と言いました。誤解がとけて、佳代ちゃんがうれしそうだったのが印象的でした。じつは佳代ちゃんは前の晩、ラジオで
「あしたのコンサートでは、バラードは手拍子しないで、じっくり聴いてください。おねがいします」
とファンにお願いをしていたのです。「やめろー!」は、そのお願いに忠実にしたがった叫びだったのです。そういうことがわかるのは、私たちが佳代ちゃんにインタビューをするミニコミであるのと同時に、いやむしろそれ以前に、佳代ちゃんのファンであったからで、たとえば商業誌のインタビュアーだったらそんなことは知らなかったに違いありません。彼女の悲しい誤解を解いて、彼女を喜ばせることができたのは、僕たちが商業ライターでなく、ファンジンだったからなのです。
 詳しくは、ミニコミのほうにほぼ一言一句誌面に起こしてありますので、見てください。
 それと、今だから明かす恥ずかしい話ですが、じつは私は、ログアウトとは関係なく、大学のサークルのほうでも、彼女を学園祭に呼ぶことを画策したのです。いや、恥ずかしいというのはその画策のことではないのです。私の自宅へ比嘉さんから折り返し電話が入り、ギャラを30万円と言われました。今思えば破格に安い値段であったと思います。我妻佳代が来てくれる値段としては、タダ同然と言ってもいいでしょう。それは、自分で言うのもなんですが、東京大学というネームバリューもあったかと思います。*2
 しかし僕らは貧乏でした。30万円なんて、雲の上の数字でした。比嘉さんはきっと、そんな値段はほとんど名目上の支払い程度の小額だから、折り返しこちらから出演の正式依頼が来ると思っていたのではないでしょうか。しかし、それはなかったのです。思い返すと重ね重ね惜しいことをしたと思います。恥ずかしいというのはまさにこの点です。けっきょくあの時は、無料で学園祭に出るので呼んでくださいというキャンペーンを当時していた、新人の川越美和ちゃんを呼びました。その結果はといえば、みずからの企画力と集客力のつたなさを思い知らされ、誇張ではなく人生初の挫折を味わうことになりました。川越美和ちゃん*3には悪いけれど、我妻佳代ちゃんを呼ばなくてよかった、という惨憺たる結果でしたが、それはまたアナザーストーリー。
 そんなこんななわけで、僕にとって我妻佳代ちゃんというのは、ファンとしてさまざまな会場へ足を運んだ思い出だけでなく、上述のような、この業界にかかわるさまざまなロールを初めて演じることになったかけだしの頃の自分の甘酸っぱい苦い思い出とも、密接にリンクしたところにいる女性です。つまりは、ファンをやるのが仕合せなのか、それとも業界人をやるのが仕合せなのか、という終わらない悩みを悩みはじめるトリガとなった、僕にとってのアダムの林檎的存在が彼女であったともいえます。今でも彼女を思い出すと、あの頃の走っていた自分を思いだし、その失敗や大胆さにみずからギャッと叫んでしまいたくなります。あれが青春というものなら、僕は二度と青春なんて繰り返したくない。だけどきっと青春というのはまぎれもなくああいうことを言うのだし、今だからわかるけれど、人は青春のなかにいるとき、自分がそこにいるとは気がつかないものなのですね。
 ということはもしかすると、今この時も実は、それと知らずにアナザーな青春のなかをひた走っている可能性は充分にあるわけです。おそろしいことですね。

*1:本当の最後の仕事は4月5日のLFレギュラー収録

*2:といっても歌謡研ではなく、「Yuppie Club」(笑)という駒場寮内サークルで、そのメンバーは私ともう一人のたった2名でした。

*3:彼女には国士舘大学の親衛隊長がついていたけれど、当日はそこから誰も来なかった。なぜなら、その数日前の新宿ミロードでのイベントで、私はその隊長と喧嘩をしてしまったので