多摩っ子バブルス@くじらまつり

東中神
十数年前ちょうど台風が来て陸上競技場ではやれなくなり、近くの東小学校の体育館でくじらまつりが行われたのを思い出します。その時は呼ばれたタレント森田健作とPumpKinを見に行ったので別に体育館でもこちらは支障はなかったのですが、花火とか屋台とかを目当てだった人の大半はきっとそもそも家から出もしなかった年だったのでしょうね。
あのとき、PumpKinの出番が出たら私たちはさっさと帰ってしまいましたが、あの後しばらくいたら多摩っ子バブルスのステージもあったのでしょうか。歴史にifはありませんが、もしあのとき私がバブルスに出会ってしまっていたら、あるいは歴史を10年くらい一気に飛び越せていたかも。
PumpKinミニコミ『かぼちゃ倶楽部』のインタビューを午前中に東小学校の教室で行わせてもらったのも今はいい思い出です。
今年呼ばれていたのは浜なんとかという演歌歌手。途中ステージから降りてきて客のいるロープのところまで寄ってきて歌っていたのでフレンドリーと思いましたが、おばちゃんたちが次々にポケットに裸の現金をねじ込んだり、封筒を渡したりするので驚きました。たいへん生々しい光景でした。あとで、あれは「おひねり」と呼ぶものだと知りました。ステージから降りてくるのもあれが目当てなのですね。もらったほうも全然悪びれるふうはなく、むしろ誇らしげにその1万円札を握りしめて歌いつづけていました。胸ポケットからはずっと5千円札が大きく飛び出しっぱなしでほんと身も蓋もないです。しかし生の現実に正直な世界だなとも思いました。日本にもかつてはこういう直な水商売の世界が大きく広がっていたのですね。いま、この類のシステムは日本の少女芸能世界では極端に警戒されています。数年前私がある子に図書券をあげたときにも事務所スタッフのあいだでちょっとした議論がわきおこったそうですが、このご時世、おひねり制というのはちょっとは見直してみてもよい仕組みかもしれませんね。なぜなら、今のこの「客はみな平等」という少女芸能世界における建前は、かえって裏面において悪平等や隠微な競争や貢物交際を生み出している気がするからであります。長くいる人はそれが愉しみという面が多々あるとは思いますが、というか私もかつてこの世界でそのような立場にあった人間としてその気持ちはよくわかるのだけれど、それとは別に、カネで手っとり早くカイケツしたいというほうの立場も最近ではいろんな社会ですごーくよく理解できるので。プレの世界ではすでに過度の物販という姿で形をかえたおひねりがさまざまに横行しているのを見ても、時代がおひねりを求めていることははっきりと見てとれると思います。客が買っても処分に困るような色紙やらプリクラやらをむりやり商品開発して売りつけられるより、それならいっそ好きな額の現金そのまま彼女の胸にねじこむほうがねじこまれるほうもなんぼか話が早いかと。それを実行したらねじこみたい男の数が多すぎて桃子の胸がはちきれそうだからそのかわり極度に客側に対する努力報酬性の高い商品開発(会場限定グッツや店限定写真等の)に凝るという現在の方向へ走らざるをえないベリーズ工房のような場合は別ですが、それ以外の人がそれを真似る必要もゆとりも本来彼女らにはあるまいに。
まあそれは半ば冗談として。
バブルスのステージは定期公演の内容のダイジェスト版でした。開演少し前、痩せぎすの孤独そうな青年がステージ脇に現れて、いかにも危なそうな雰囲気をかもし出し、瞬時にスタッフからネメ回されても本人は気づく風なく、あるいはそういう周囲の視線に生まれたときから慣れてしまっているのかとも思うと少し彼のために哀しい気もします。立ち入り禁止のロープ内を突然彼がすり足で高速駆け足してきたので何事かと思いましたが、最前列の席が空いたので突進してきた模様。ちょうどのんびりとそこに腰掛けようとしていたおばちゃんたちが何事かと目をむくのもものともせず、むりやりそれを押しのけて最前列を確保。そして、開演直前には三脚をロープの内側に立てて件のスタッフから注意を受けていました。しかし結局のところ直す様子はなし。ヲタ必死すぎです。地元の祭りに一緒にヨソ者が居させてもらうという謙虚さという概念はそもそも生まれたときから感じたことすらないのでしょうね。かわいそうな人生です。