AKB48の矛盾あれこれ

 今日もAKB48を見に行ってきた。今日は昨日よりも人が多くて、また私のすぐ後ろでソールドアウトだった。きっと、バレンタインをやると告知されてからまる1日以上経っていたから、都合をつけられた人が昨日よりも多かったのだろう。

 話すことがなんにもない。話したいことは、見ていてけっこう沸いてきたのだけど、どれも面と向かって話すほど、相手にとって重要なこととは思えない。そこで結局今日は、困ったときの

「がんばってください」

のひとことでサッと逃げてきた。

 チョコ受け渡しの仕切り自体も、昨日の若干の混乱の反省からか、だいぶ厳しめに仕切りなおされたようだ。カフェに出す人数は細かく区切って整理。かつ、テーブルに沿って人ひとり分の通路をロープで作り、そこから人が溢れ出さないように管理。話の長い客を見逃さないよう注意。長く話したいことがある人にとっては残念だが、あれでだいぶ、出た順番による不公平感はなくなっただろうから、全体にとっては良い方向だ。

 観るのは今日でまだ5回目だが、AKB48にはさまざまな矛盾があることに気がついてきた。以下挙げてみたい。

  • 最初の曲で「Stand Up!」ってあおっておきながら椅子席は立ち禁止だコリャ!

 きっと、将来は最前列の椅子席も存分に立って踊れるような会場へステップアップすることが織り込み済みなのでしょう。

  • 一緒に振り付けやってネとかあちこちで示唆しておきながらアンコールの振りは片手だけかよコリャ!

 『桜の花びらたち』は本編ではスタンドマイクで歌われるので両手をフルに使った振り付けが披露されるが、アンコールのときは同じ歌でも全員手持ちマイクを持ってるから、片手でしか振りができないのである。まるで、本編で覚えた振り付けを、ちゃんと覚えましたか? とテストされているかのようだ。

 郷に入っては郷に従えと言う。ことアイドルという現場については、その場のノリに合わせてしまったほうがはるかに面白い。私も今日はじめて振り付けを真似してみようとがんばってみたが、アンコールの『桜の花びらたち』で、もう片方の手をどうしていいか覚えてない場面がけっこうあった。劣等生である。

  • 1つのCDに入ってる曲の方向性が正反対だコリャ!

 『桜の花びらたち』と『Dear my teacher』。

 かたや、まっすぐで清く正しく美しい、純真無垢な卒業の唄。この季節にじつにふさわしい、そしてデビューしたての彼女たちのけがれのないイメージにぴったりの、ココロにしみる佳曲です。先生ありがとう、わたし巣立ちます、みんな元気でね…!

 …しかし。

 もう1曲では彼女たちは、教師にアレの「授業」をせがんで離れない、とっても悪い子に変身します。

 高校生や中学生、そして小学生までもが先生に迫るとき、果たして聖職とは何ぞや? そして理性とは!?

 Berryz工房以来、日本の芸能界はロリヲタ養成無法地帯と化していると言われてまいりました。昨今のロリ教師同時多発エロも、それと無縁ではないという声も高まりつつあります。

 そんなこのご時世に、いやむしろこんな現代だからこそ、まさに時代を問う問題作といっても過言ではないこの歌。恩師のタイーーーーーーーーホも辞さないその誘惑っぷりは、ま さ に 小 悪 魔 ち ゃ ん で す !!

(そういえば、小悪魔ちゃんコンテストの子たちって今どうなっちゃってるんでしょうか…?)

 それにしても、同じ秋元康が書いても、1985年には先生「およしになって」と言っていたのに、2005年には先生に「授業は得意でしょ」ととても積極的になってしまうのは、やはり世相の“進歩”というものなのでしょうか。まあしかし、1985年当時でもじつは「不倫はやめているんです」とか言ってるので、本気で「およしになって」とか言うようなウブなタマではないことがバレてる、そこにいかにも秋元節なからくりはあるわけですけど。その意味では、2005年のほうがずっとストレートな歌になっているということはできる。それは、おニャン子よりも若い子たちを主体として構成されたAKB48の、無邪気なイメージの表れということなのかもしれない。ってことにしとこ。

  • 最後尾椅子席の前に意味のわからない柵があるぞコリャ!

 以前は、もう2〜3列後ろまで椅子があったそうだ。今はそれを取っ払わないと人が入りきらなくなった。最終的には、あの柵の線まで立ち見にするということなのだろうか。

 それとも、あるいは250人というのは消防法か何かの線で、どうあがいてももう増やせないのかもしれないという可能性もある。

  • よねよね氏やKOUKEI氏が来たらどうすんだコリャ!

 これは冗談ですのでそのつもりでどうかひとつ。女性席に座らせろと彼らが仮に要求したらどうするのという話です。銭湯やトイレでも言えることだけどね。そういう所ではああいう方々はどうしてるんでしょうね。

 女性優先席ができたと聞いたとき、永野のりこ先生のマンガを読んでる人なら、ふへ山の

「女装、か…」

というつぶやきを思い出したのではないだろうか。あるいは、ものすごい超ふけ顔の15歳ですと言い張ってみるとか、誰もが一度は言ってみる冗談だと思う。言うだけで誰もやらないと思うけど。

「でももしやるやつほんとにいたら、逆に必死すぎて止めんわな」

と冒険王さんが言った。そうだろうなあ。スカートはいて口紅ひいてるけど、どう見ても昨日まで来てたキモヲタだろお前! とか思っても、その努力に免じて…ってな感じになる可能性は充分あると思う。だって、そいつが女性だと自称してるのを否定する根拠はなんにもないんだもの。

 実際、筋肉少女帯の「アニキライブ」という野郎限定のオールスタンディングギグに行ったとき、明らかに女のファンが男装して、マスクもして何人も入り込んで来ていた。チケットの競争率が普段より低かったことと、男だけに向けて作られたステージの内容が貴重だったからだろうと思うが、その熱心さには大変頭が下がったので、仲間として密着しまくり(中略)ったことは内緒だ。そんなことが起きてしまうのも、性別については、本人の自己申告以外に確認の手段がないからにほかならない。

 かく言う私も、チェックのプリーツのミニスカートと、丸襟の白のブラウスを着ていた、色白サラサラ髪の清楚でおしゃまなスレンダー美少女と、さんざんあんなことやこんなことをした後に…、という苦い経験がバンコクで有る。言われないと最後までわからんものですよほんと。あれ以来、たとえば前田敦子がじつは男でももう全然私は驚かない。

  • 仕切りの方針がコロコロ変わるぞコリャ!

 いろいろやってみて、反応を見る。好評ならその方向で推し進める。不評ならあっさり引っ込めて転進。

 そんなふうにフットワークの軽い意思決定機構がAKB48にはあるように感じる。窓口になっているのは例のブログだが、まさかあれを書いている人がすべて独断で決めているというほど小さな企画ではないだろうから、こまわりがきく体制がうまくできているということなのだろう。

 君子豹変、小人革面。

 だから、この項を「前と言ってること変わってるじゃん」という意味で「矛盾」の列挙に含めるのは激しく不当なのだが、面白いのでこの際最後に一緒に並べてしまった。許してください。

 物理でいう仮想変位の原理にも似ている。いわく、最適なスタンスとは、そこからちょっと動いてみたとしたときに、その動きが引き起こす軋轢の総和がゼロになるスタンスのことである。逆にそのとき、軋轢で流されていくようならばあなたはまだ最適なスタンスを見つけていないことに気づくべきである。すべての企画はすべからくそのようにスタンスの最適化を図らなければ成功しないと知らねばならない。なんてね。まあ実際はこの原理だけだと、スタート条件が悪いと、最大の成功ではなく手近の小さな安定で満足してしまうことになる可能性もあるのだけど、その点についていえばAKB48のスタート条件はめまいがするくらいに恵まれている。下世話な話、いったいいくら初期投資してるんだろうとか思ってしまう。